BUG新卒採用ページ
20年史
  1章 BUG草創期
  1-1 北海道マイコン研究会
  1-2 個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.誕生
  1-3 東京での就職活動
  2章 BUG設立
  2-1 株式会社BUG設立
  2-2 主力製品
  2-3 大企業ソニー
  2-4 大日本印刷との出会い
  2-5 インドネシアと中国にて
  3章 新社屋建築
  3-1 MPS
  3-2 テクノパークに新社屋
  3-3 MPSからの産物
  4章 開発物語
  4-1 Macintoshのデベロッパーカンパニー
  4-2 B.U.G.に子会社誕生
  4-3 ハイビジョン映像機器
  4-4 データベース出版システム
  4-5 MN128開発物語
  4-6 波乗野郎開発物語

1-2 個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.誕生
    〜1977年10月 大学3年目の秋

 マイコン研究会には、BUGが設立されるのにあたっての主要なメンバーがみな集まっていた。同じクラスだった服部、若生、木村、村田、そして、2つ上の似鳥、阿部。しかし、まだお互いを知っているというわけではなかった。

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 1977年7月、その全員が初めて同時に顔を合わすこととなる運命的な出来事が起こる。マスター2年になっていた山本先生が、展示会の視察に行っていたアメリカから帰国した。山本先生は、おもしろいお土産を買ってきたからみんなで見よう、とマイコン研究会のメンバーに話を持ち込んできた。それは、山本先生がリールに入っているものを外し、巻直してまで持ち込んだ「ディープスロート」という当時の日本では滅多にお目にかかることができない古典ポルノ8ミリフィルムであった。実は、山本先生は、このフィルムが見れる映写機を探しており、研究会のメンバーに声をかけていたのである。ちょうど服部の実家が写真屋であったため、ビデオ上映会は、無事行うことができた。このポルノフィルムの上映会こそ、B.U.G.創立当初のメンバー全員が初めて同時に顔を合わすこととなった歴史的な瞬間であった。

 (※後日談:村田は丸井デパートの展示のころからの付き合いで、その場には居合わせていなかったことが判明。噂でフィルムの話を聞いただけであった。) 

 マイコン研究会も回を重ねて行くうちに、1年が過ぎようとしていた。そんな中、自分で組み立てたコンピュータを各自持ち寄って展示し、TVゲームのようなものをやっては面白いのではないか、という話がもちあがった。表向きは、格好よくいえば、もうコンピュータは自作できる時代であり、少し経てば、テレビのように家庭に1台コンピュータが普及する時代になる、ということをできるだけ多くの人に知ってもらうために展示会を開こう、というのである。青木先生が、この自作コンピュータ展の企画を札幌市内の6つのデパートに持ちかけたところ、店長の趣味がアマチュア無線であったからか、札幌丸井今井デパートが即座に快く引き受けてくれた。

 

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 1977年8月、「第1回北海道マイコン&ハムベンション」と銘打った展示会が丸井今井デパートで開かれた。当初は、アマチュアの手作りコンピュータを並べて動かしてみる程度のささやかな展示会を考えていたが、丸井今井デパート店長や、CQハドソンの創業メンバーも積極的に参加することとなり、この両名が東京まで奔走してマイコン業者を札幌にまで呼び寄せるなど、大がかりなものに発展した。展示会では、マイコン研究会の自作マシンもすべて展示され、中には、服部の自作マイコン「HIROTAC-80」、似鳥の音声認識装置などもあった。もちろん、青木先生の「AOKIC-68」もである。北大からは、山本先生、服部、阿部あたりが1週間、丸井今井デパートに通い詰めてコンピュータのお守り役をしていたようだ。展示会の反響は、一般のお客さんが大勢おしかけた、というほどではなかったが、このような展示会はほとんど開かれていなかったため、マイコン好きな人たちの貴重な情報交換の場となった。

 マイコン研究会の学生たちは、とにかくコンピュータ作りに熱中した。お金はすべて自分のコンピュータ作りにつぎ込むという熱の入れようであった。行動派の服部は、コンピュータ作りに必要なお金を集めるのにアルバイトを一緒にやらないか、とマイコン研究会の同級生3人に持ちかけるようになる。ちょうどその頃、アスキーの創始者西和彦氏が、東京で自分の会社を始めたことがもれ伝わり、学生が会社を始めた、ということで話題になっていた。それならば、自分たちも札幌で自分のパソコンを作るための資金稼ぎに集まって、会社のまねごとみたいなものをやってみようということになったのである。

 知識情報処理研究振興会発行の「いんふぉうぇいぶ」VoL.6 No.1(Jan.1991)に応用電気研究所(通称:応電研、現:電子科学研究所)の伊福部先生が寄せた当時を物語る記事がある。

いんふぉうぇいぶ

『北大の入学式を終えた足で服部君は応用電気研究所の私の研究室(メディカルエレクトロニクス部門)を訪ねてきた。「将来、僕はMEの研究をしたいのでよろしくお願いします」とのことであった。少年のような眼差しで多くの夢を語って帰っていった。果たして、それから3年後、電子工学科の学生時代に彼は私の研究所に顔を出すようになった。いつの間にかHIROTACという名前の自作のマイコンが研究室の片隅に置かれていた。彼の眼差しが3年前と変わったなと感じたのはそのころであった。・・・<省略>・・修士課程に入ってから、村田利文君、木村真君、若生英雅君がしきりに私の研究所に出入りするようになってきた。当時、Z80CPUが安く手に入るようになり、それを使ったキットでクロメンコというマイコンを作ったりしていた。私の研究室で当時博士課程1年生の似鳥寧信君も加わり、連日のようにマイコン談義が続いた。その言葉の端々に「僕らの会社」という言葉が聞き取れた。彼らは、もう、「僕らの会社」に盲目になっていた。』

 4人は、服部の部屋を会社の事務所ということにし、隣の判屋でゴム印を作ってもらい、市販の請求書と領収書の束を買ってきた。服部、若生、村田、木村の4人で会社ごっこが始まった。1977年10月、大学3年目のときであった。個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.創立。これが、B.U.G.の始まりである。


さて、次回は、「1-3 東京での就職活動」です。伸び伸びと北海道で育った彼らが東京で見たものとは? どうぞお楽しみに。


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Update.1999.04.16
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