BUG新卒採用ページ
20年史
  1章 BUG草創期
  1-1 北海道マイコン研究会
  1-2 個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.誕生
  1-3 東京での就職活動
  2章 BUG設立
  2-1 株式会社BUG設立
  2-2 主力製品
  2-3 大企業ソニー
  2-4 大日本印刷との出会い
  2-5 インドネシアと中国にて
  3章 新社屋建築
  3-1 MPS
  3-2 テクノパークに新社屋
  3-3 MPSからの産物
  4章 開発物語
  4-1 Macintoshのデベロッパーカンパニー
  4-2 B.U.G.に子会社誕生
  4-3 ハイビジョン映像機器
  4-4 データベース出版システム
  4-5 MN128開発物語
  4-6 波乗野郎開発物語

第2章 株式会社ビー・ユー・ジー設立  
   (80年代前半のB.U.G.)

2-1 株式会社ビー・ユー・ジー設立
    〜 1980年10月 修士2年目の秋

 会社ごっこを始めたばかりのB.U.G.の感覚は、「町の電気屋さん」ならぬ「町のコンピュータ屋さん」であった。隣近所にありそうな町の電気屋さんが、家電が故障したら直してくれるように、自分のコンピュータが故障したら直してくれるようなちょっとしたお店が開けたらいいな、という程度である。パーソナルコンピュータは、まだ趣味の世界であり、おもちゃだったのである。パソコンの将来性を感じたのは、後になって銀行の計算センターへ仕事をもらいに行った際に、通帳管理の記憶ぐらいしかさせていない大型コンピュータを見たときであった。
 実はその当時、彼らは、学習塾のアルバイトもしており、起業するなら、学習塾かコンピュータかと思っていた。だが、コンピュータの方は1回の仕事につき、20万円から30万円は払ってくれる。苫小牧のバスターミナルシステムの開発には、過酷な労働であったが、2週間で50万円ほどもらえた。学生にしてはとても割のいいアルバイトだったのである。そして何よりも、自分たちはコンピュータが好きだった。まだ下請けのような仕事ばかりではあったが、このまま自分たちの好きなコンピュータに関する仕事を札幌で一生続けられたら楽しいのではないだろうかと真剣に考えるようになっていった。ただ、本格的に始めるにはまだいま一つ自信がなく、資金作りにも少し準備期間がいるだろうし、両親も説得しなければいけない。多少動機は不純ではあるが、4人は、とりあえず2年間大学院へ行くことにしたのである。

4人

 大学4年目の冬、ちょうど苫小牧のシステムを開発していた頃、4人は大学院への進学が決まり、後は学部の卒業論文の提出をすれば卒業できるという状況であった。服部は、卒業論文に「聴覚障害者用触知ボコーダのための音声特徴抽出」という研究テーマを選び、若生のつくったメモリ基板(あの1枚1万5千円で組み立てていたもの)を使用して研究を進めていた。ところが、なぜかプログラムをコンパイルするとコンピュータが暴走する。服部は、何度プログラムを直してもコンパイルできずに、はまりにはまって3日間徹夜するはめになった。その服部の問題解決に、研究室の先輩である似鳥が何度か付き合うことになる。そして、2人で原因を突き止めていくうちに、若生のつくったメモリ基板に、メモリがリフレッシュされないという致命的なバグがあることが判明した。Dynamic RAMは、StaticRAMとちがって、自分でリフレッシュする回路を設計しなければならない。ここが、DynamicRAMを使う落し穴だったのである。若生の基板は、フロッピーへのアクセスが頻繁になるとリフレッシュされないのでメモリが消え、長いプログラムをコンパイルすると暴走するのであった。他人の作ったメモリ基板で要領よく研究を進めようとして散々な目にあった服部であったが、原因追及をしていた期間に似鳥の才能を知ることになり、B.U.G.への入社を強く奨めた。結局、若生のメモリ基板のおかげでその後似鳥はB.U.G.入社となる。似鳥の研究していた音声認識装置は、設立当初のB.U.G.の主力製品、また標準プラットフォームともなる。若生のメモリ基板は、とても運命的な意義のあるものだったのである。

 B.U.G.の大学院時代は、学業もそこそこに本当によくアルバイトに精をだしていた。苫小牧のバスターミナルシステムの開発後すぐに取り組んだガソリンスタンド用会計管理プログラム、ホクレン糖分分析器、道立公害試験場クロマトロフィー計測システム、コンピュータ制御によるレザリウムシステム、同じくコンピュータ制御による汎用電飾パネル、電気暖房制御システムなど数多く手がけている。いつしか、1人125万円ずつ貯えて出し合い、株式会社設立のために500万円の資本金をつくることが彼らの目標となった。そして、自前の開発マシンを用意できるほどのお金がなかったB.U.G.にとって、株式会社設立にいたるまでの事実上の後ろ楯ともなっていたのが、札幌にあった北光照明という会社と北海道大学の先生方であった。

B U G

 北光照明は、大阪に本社のある特殊照明を扱っていた札幌の会社であった。コンピュータ制御によるレザリウムシステムは、北光照明からの依頼である。ススキノのゲームセンター"クノイサス"がある場所に、"アトラス"という生バンドの演奏を聞きながら踊るナイトクラブがあり、その店のレーザー照明をコンピュータ制御にしたいということであった。当時、東京にしかなかったディスコではレーザー照明が流行っており、システムはアメリカから輸入していた。B.U.G.は、これまでは大学の研究室にあるクロメンコを使ってこそこそと開発していたのだが、北光照明は、開発に必要なクロメンコなどのコンピュータまで買って用意してくれたのである。ところが、このアトラスという店自体が閉店してしまい、結局開発用のコンピュータだけもらって、システム自体は納品しないことになってしまった。完成したシステムだけが納めないまま残ってしまったので、せっかく開発したのだからと、服部は、このレザリウムシステムをススキノのディスコやストリップ劇場にまで売り込み営業をかけたが残念ながら売れることはなかった。しかし、その後また北光照明は、コンピュータ制御による汎用電飾パネル開発を発注してくれた。その名の通り、コンピュータ制御で電飾文字を流すシステムである。こちらは、ススキノのキャバレーに無事納品された。大阪出身だった北光照明の社長は、札幌を非常に気に入り、まだ学生であったB.U.G.に対してもここでがんばれ、と開発用のコンピュータまで用意してくれたのだ。今でいうエンジェルに近い存在だったかもしれない。

 このクロメンコをヒントに、B.U.G.は初めての自社製品、汎用コンピュータシステム"BUG Staff"を開発する。北光照明からの仕事の次に引き受けた電気暖房制御システム以降は、このBUG Staffで開発された。電気暖房制御システムは、部屋ごとにとりつけた温度センサーにより、コンピュータで暖房を制御し、室温をコントロールするシステムで、札幌市内の小学校に納品された。暖房の電源のオンオフをコンピュータ制御できるようにして、夜間蓄熱した熱を昼間に解放するようにしていた。

Staffのパンフレット
Staffのパンフレット

 BUG Staffは、当時安く手に入るようになったザイログ社のZ80CPUを使用した8bitマイコンで、OSは、デジタルリサーチ社からライセンス契約を交して当時のディファクトスタンダードであったCP/Mを載せた。もちろん聞き慣れているWindowsやMacintoshといったOSが世の中に登場する前の話であり、MS-DOSを載せたIBMパソコンの登場ももう少し後の話である。B.U.G.のメンバーは、Staffのパンフレットをいつももち歩き、機会があるごとにStaffとStaff上で動く音声タイプライター(音声認識装置)の宣伝をしていた。この音声タイプライターは、大学に出入りのある大日本印刷や沖電気、三菱電気などの大手企業にも納められた。各企業の音声認識開発チームでは、このB.U.G.の音声タイプライターを見て、大学の研究室の方が企業よりも研究が進んでいることに驚きを表わしたという。実のところ、まだ学生であったB.U.G.は、大学内で直接企業と取引をしてお金を儲けることをおおっぴらにはできなかったため、北大と民間企業の共同開発ということにし、民間企業から開発費をもらって大学が試作機をつくって納めるという形をとっていた。試作機をつくるのはB.U.G.で、先生方が、企業の研究室へ出向いてはセールスをしてくれた。B.U.G.には、Staffの開発以前には、開発に使うマシンも、ましてや測定機などもあるわけもなく、大学の研究室ですべて研究室のものを使って開発をしていた。協力していた先生方にも、当然、大学側や他の教授からの批判もあったが、ベンチャーなどという言葉もないころに、その高い能力を見抜き、夢を持った学生の会社を育てる暖かい目がそこにはあった。
 こうして、先生方、周囲の学生、北光照明の社長など、いろいろな人からの草の根支援もあって、何とか資金を蓄えることができた。
 修士課程2年目の秋、1980年10月、B.U.G.は株式会社として登記され、本格的にスタートすることとなった。

 


次回は、「2-2 主力製品」です。株式会社になってからの主力珍製品と、過酷な仕事の数々、当時の様子をご紹介します。


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Update.1999.07.30
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