BUG新卒採用ページ
20年史
  1章 BUG草創期
  1-1 北海道マイコン研究会
  1-2 個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.誕生
  1-3 東京での就職活動
  2章 BUG設立
  2-1 株式会社BUG設立
  2-2 主力製品
  2-3 大企業ソニー
  2-4 大日本印刷との出会い
  2-5 インドネシアと中国にて
  3章 新社屋建築
  3-1 MPS
  3-2 テクノパークに新社屋
  3-3 MPSからの産物
  4章 開発物語
  4-1 Macintoshのデベロッパーカンパニー
  4-2 B.U.G.に子会社誕生
  4-3 ハイビジョン映像機器
  4-4 データベース出版システム
  4-5 MN128開発物語
  4-6 波乗野郎開発物語

2-2 主力製品 

フジ商会
フジ商会
ここの2階が最初のオフィスである

 株式会社となって間もないB.U.G.の主力製品は、音声認識装置の他、商業用コンピュータシステム「FAS(Future Advertisement System)」と、電子似顔機「VAP(Video Art Printer)」であった。
 FASとは、木村が中心になって開発したもので、実は当時大ブームとなっていた天中殺の占い機である。どこかの天中殺占いの本を買ってきて、その本の内容通りに答えが出てくるようにプログラムを組んだものであった。生年月日を入力すると1枚の紙に占いの結果がでてくる、といった具合である。
 VAPは、布地に自分の似顔絵をプリントして自分だけのオリジナル品を作るというもので、「似顔絵布地プリントシステム」といえよう。まず、ビデオカメラで人を撮影し、そこからキャプチャして顔の静止画をとり、ドットインパクトプリンターを使って紙にプリントアウトする。それをTシャツやハンカチ、エプロンなどと重ねて業務用のアイロンでぺたっと転写してでき上がりというわけだ。VAPは、若生を中心に当初は、街角に置こうと思って開発された。しかし、結局、両システムとも街角に置くことは叶わなかったが、共同で部屋を借りていたビジネスパークという会社に販売し、ビジネスパークから凸版印刷にレンタルされることになった。そして全国津々浦々に開催される凸版印刷のフェアに出展され、似鳥と木村が、FAS、VAPとともに楽しい珍道中を繰り広げることとなった。そのフェアのイベント用に配る似顔絵Tシャツ作成機として、VAPは大盛況であったが、その仕組からしてとても手間のかかる機械で、まず人がビデオカメラで撮影しなければならず、プリントアウトするのにも当時は1枚2分近くかかった。また、しばしば動作が不安定になることもあり、素人には扱えないものであった。プリント倶楽部の流行る20年ほど前の話になるが、発想はほぼ同じである点は目の付けどころはよかったかもしれない。

川村ビル
川村ビル
フジ商会の向かいにある

 株式会社となってからは、服部の実家の2階から出て川村ビルという向かいのビルに事務所を設けていた。FAS、VAPを納品したビジネスパークが倒産してしまい、共同で部屋を借りていたためにコワイ人が来る、というハプニングもあった。川村ビルで2年ほど過ごして後、1982年に、今度はススキノの外れにある北山ビルに引っ越しをした。この北山ビルでも「壁落下事件」「電気工事ミス事件」「盗難事件」「発砲事件」「灯油漏れ事件」「ウェイトレス殺人事件」「下水漏れ事件」など数々の怪事件が起こっている。

 B.U.G.は、音声認識装置、「FAS」、「VAP」に続く製品の開発と、北海道内の仕事を次々とこなしていった。服部の修論でもある音声応答装置、阿部の汎用コンピュータシステムCREW、若生の手がけた新日本製鉄室蘭工業所高速グラフィックディスプレイシステム、そして、似鳥の三井上砂川炭鉱地震観測システム、村田の北大機器分析センター集中管理システムと続いていく。
 中でも、三井上砂川炭鉱地震観測システムは体力的にも精神的にも辛い仕事であった。これは、炭鉱の落盤を予知するために、炭鉱内のあるポイントごとに地震計を設置し、予兆ともいえる小規模な地震の地震波をコンピュータで処理して、リアルタイムで震源地と規模を表示するシステムである。開発まではよかったが、最後は直接、炭鉱現場に行かなければデバッグできず、炭鉱内にはさすがに入らなかったが、近くの小屋のようなところにコンピュータシステムを置いて、地震が起こったような信号を流し、数日間デバッグを続けるという大変なものだった。現地でしかデバッグできないため、ぶっつけ本番で納品したのだが、致命的なバグもなく順調に動いた。北海道ではその当時、非常に炭鉱事故が多く、納品後は炭鉱事故のニュースを見るたびに冷や汗をかいた。幸い、三井炭鉱では、その後、大規模な事故もなく、B.U.G.の開発した観測システムも正常に動作を続け、ソフトを少し修正する程度で、何年か使用された。そしてそのまま三井炭鉱は閉山を迎えることとなった。
 また、当時開発したシステムの中でも最も安く請け負ってしまったのが、北大機器分析センター集中管理システムの開発であった。北大の薬学部からの依頼で開発してしまったものだが、何とこのシステムは、82年から91年ぐらいまで北大で使われていたようである。

北山ビル
北山ビル

 当時の仕事全体を通して言えることは、ハードを納めるとソフトはただで付いてくる、という感覚であった。ソフトウェアは無償であるという意識が強かったその頃、ソフトウェアは知的所有物であり、いくらでもコピーはできるが無償ではなく、最初に開発したものに権利があるのであり、使用するにはその権利に対してお金を払わなければいけないものである、と主張したのがマイクロソフトの創始者ビル・ゲイツであった。米国でソフトウェアが著作権法で守られるようになったのは、1980年のことである。日本にもやがてこの考え方が普及していくが、B.U.G.の当時の北海道内の仕事もハードの値段としてしかみられていなかった。


次回は、「2-3 大企業ソニー」です。天下のソニーと札幌のB.U.G.の出会い。そして、B.U.G.がソニー初のパソコン「SMC-70」のBASICを開発することに!


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Update.1999.08.30
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