BUG新卒採用ページ
20年史
  1章 BUG草創期
  1-1 北海道マイコン研究会
  1-2 個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.誕生
  1-3 東京での就職活動
  2章 BUG設立
  2-1 株式会社BUG設立
  2-2 主力製品
  2-3 大企業ソニー
  2-4 大日本印刷との出会い
  2-5 インドネシアと中国にて
  3章 新社屋建築
  3-1 MPS
  3-2 テクノパークに新社屋
  3-3 MPSからの産物
  4章 開発物語
  4-1 Macintoshのデベロッパーカンパニー
  4-2 B.U.G.に子会社誕生
  4-3 ハイビジョン映像機器
  4-4 データベース出版システム
  4-5 MN128開発物語
  4-6 波乗野郎開発物語

2-5 インドネシアと中国にて

 まずは、インドネシア進出の話である。
 北大の青木先生からインドネシア行きの話が来たのはB.U.G.がちょうど北山ビルに引っ越した頃であった。

 1981年夏、青木先生の研究室にインドネシア人留学生が在籍していたこともあって、インドネシア大学の教授が、マイコン技術をインドネシアにも移転しようと、視察に来た。その教授は、現在、インドネシアではマイクロコンピュータ関連産業の振興が急務であり、そのために大学においてもマイコン技術者を養成して、大学で開発した技術を生かしてシステムハウスやソフトウェアハウスを起こしたいこと、さらにマイコンビジネスをてこにして教育機関を整備したいということなどを熱っぽく語り、青木先生のところでやっているマイコン研究会が手本になるというのであった。青木先生もその熱心さに押され、技術移転のお手伝いをすることになった。
 その際に札幌のマイコン工場も見たいということで、インドネシア大学の教授は、B.U.G.にも立ち寄り、Z80 CPUを用いたマルチボードのStaffと、シングルボードのCREWの2つの汎用コンピュータを購入し帰国した。
 しばらく後、若生は、青木先生とともに学会のためにインドネシアへと向かった。ところが、行ってみると、インドネシア大学のマイコンラボでのB.U.G製のマイコンが故障しており、若生はこれらのメンテナンスのために2,3日大学に箱詰め状態で、観光する余裕もなくなってしまった。これらの出来事がB.U.G.にとって初めての海外進出、汎用コンピュータをインドネシア向けに輸出開始するきっかけとなった。

パナサテック社
パナサテック社
指導する阿部
指導する阿部

 このインドネシア大学での試みが評判となったのか、84年、インドネシア企業パナサテック社から、このインドネシア大学がB.U.G.から購入したマイコン StaffとCREWに対して、完成品を輸入して自社製品として販売したいというOEM供給の申し出がきた。B.U.G.は、この申し入れを受け、パナサテック社に汎用コンピュータの輸出を開始することとなった。ところが、最初の何ロットかを納めるとぱたりと受注がこなくなった。そしてしばらくすると、今度は現地組み立てのノックダウン方式にしたいとの申し出があった。B.U.G.は、一度インドネシアに出向き、結局この申し出も受けることにした。組み立て方などの指導に、入社すぐの阿部がインドネシアへと向かった。しかし、また出だしは順調に輸出できたものの、次第にパナサテック社の経営の雲行きが怪しくなったようで、結局、全数は出荷できず、最後に納めたものの代金も回収できず仕舞いとなってしまった。これが初めての海外進出インドネシアであった。

 次の海外進出は中国である。今度は、気象衛星ひまわり気象画像処理装置を中国の気象台に納品することになった。
 1985年、青木先生の音頭の元、札幌市と姉妹都市にあたる中国の瀋陽市で、第1回の計算機応用技術に関する学術会議が開かれることになった。その学会に、日本側の論文の1つとして、若生と似鳥、入社したての川上が「気象衛星ひまわり自動受信システム」を書き上げ、若生、似鳥が学会へ参加することにした。

  学会の前日、中国の気象台で、20名ほどの前でデモンストレーションを行っていたところ、ひまわり気象画像処理装置が煙を出して燃え出した。5月から開発し、5月、6月、7月と3ヵ月何も問題のなかったものが、操作説明開始10分くらいで突如燃え出したのである。突然のできごとで、デモンストレーションは一時中断し、システムを引き上げて修理することにした。困っていたところに、ちょうど梅沢無線の梅沢氏が、中国の大学に部品を寄付していたことを思い出し、大学へと向かった。日程も限られていたため、当日中に修理しなければならず、梅沢氏の寄付した部品で賄えるよう、回路変更することとなった。しかし、今度は工具がない。電気工事をするような大きなものしかなく、精密工具はなかった。ましてや、測定機などもなかった。それでも夕食までには直さなければならず、手元にある部品だけを使って動くよう回路を設計し直し、ある工具だけを使って、古びたオシロなどで測りながら燃えてから約2、3時間で作り直した。そして同日の夕方に再度、集まってもらい、何とかデモを再開することができた。その後、何事もなかったかのように夜のディナーにも招待された。

ひまわりの画像 中国上空
ひまわりの画像 中国上空

 翌日、その気象台にシステムを納品することとなったのだが、いつ火を噴くか分からないから全部の予備基板を作って欲しいと要望があった。しかし、B.U.G.としては、全部の予備基板を作るのは非常に手間がかかるため、帰る列車の時間を気にしながらもう日本には帰れないかと思うくらいぎりぎりまで散々もめたあげく、半分の種類の予備基板を納品するという約束を交すことにした。若生と似鳥は食うものも食わず、走って列車に飛び乗った。瀋陽市から北京までは、東京-青森間ぐらいの距離があり、ディーゼル機関車が走っていた。とりあえず列車の中でピーナツと中華ソーセージ、ビールを買って食べようとしたが、どうしてもにおいのきつい中華ソーセージだけは食べられなかった。この時以来、若生と似鳥は数年間中華料理ぎらいとなってしまった。

Staff
中央のStaffが画像処理装置
左はメンテナンスする川上

 そして数ヵ月後、今度はビデオディスプレイへの出力だけでなく、分岐させてプリンタからも出力させる、ということで、入社1年目の川上が青木先生の学会に伴って中国へ飛んだ。この時同時に、前回の交渉で作ることになった予備基板も非常に手間がかかるので、何とかならないものか再度交渉してみたのだが、見事に敗れてしまった。結局は、プリンタの取り付けとプリンタ用紙を納品の上、帰国後、予備基板を1枚だけ納め、さらに1年間のメンテナンスが約束され、故障した際には即刻中国まで行かなければならなかった。これが2度目の海外進出中国であった。

 海外では少々痛い目にもあっていたB.U.G.ではあったが、日本では、Z80用や68000用のホビー用のソフトもいくつか開発していた。北大に在籍していたドイツ人留学生アレックスが作ったSMC-70用のチェスや五目並べのゲームソフトは、ソニーが何百本か買い上げてくれ、SMC-70のカタログにも掲載された。この製品は、初めて店頭にならんだB.U.G.製品ともなった。

 


次回から、3章 新社屋建築 に移ります。「3-1 MPS」です。B.U.G.の屋台骨となった製品、カラー印刷レイアウトシステムMPSの歴史です。

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Update.1999.11.30
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