BUG新卒採用ページ
20年史
  1章 BUG草創期
  1-1 北海道マイコン研究会
  1-2 個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.誕生
  1-3 東京での就職活動
  2章 BUG設立
  2-1 株式会社BUG設立
  2-2 主力製品
  2-3 大企業ソニー
  2-4 大日本印刷との出会い
  2-5 インドネシアと中国にて
  3章 新社屋建築
  3-1 MPS
  3-2 テクノパークに新社屋
  3-3 MPSからの産物
  4章 開発物語
  4-1 Macintoshのデベロッパーカンパニー
  4-2 B.U.G.に子会社誕生
  4-3 ハイビジョン映像機器
  4-4 データベース出版システム
  4-5 MN128開発物語
  4-6 波乗野郎開発物語

第4章 開発物語

4-1 Macintoshのデベロッパーカンパニー

 1991年、MPSIIIでMacintoshがフロントエンドとなって発売される以前から、社内でもMacintoshが増え始め、Macintosh関連の製品開発も多くなっていった。

Lisa
Lisa
初代LisaのGUI
初代LisaのGUI

 しかし、B.U.G.とMacintoshの関わりはもう少し古い。1980年の秋、創立まもない頃、伊福部先生の研究室の助手から、「知り合いに電子回路の設計やハードの組み立てができる人間がいるから一度会ってみてB.U.G.に採用してみないか」とある人物を紹介された。Macの伝道師こと、加畑氏である。超能力や超常現象の解明に熱心であった加畑氏は、B.U.G.に入社後、主に、電子回路の設計やハードの組み立てを担当し、その収入は、すべて自分の好きな研究に使う、というほど研究熱心な人だった。その加畑氏が、1983年、当時出たばかりのアップル社のコンピュータLisaを購入した。
 Lisaは、現在では当り前になっているマウスやウィンドウといったグラフィックユーザインターフェース(GUI)を初めて搭載した非常に画期的なコンピュータであった。しかも、値段が高いことでも話題になり、日本円で200万円近くしていた。当時はまだ、PC98やDOSのようなキーボードからコマンドを入力する世界であり、マウスを操作して画面にウィンドウが表示されるというようなことは信じられなかった。加畑氏の自宅でLisaを見たエンジニアたちは驚くと同時に、Lisaがグラフィック(ドロウやペイント)の扱いに向いていることを確信した。LisaのGUIに感動したB.U.G.も早速翌年にはLisa2を購入し、Lisa2を使ってMPSの回路図の清書などを行っていた。
 Lisaシリーズは非常に価格が高かったため、ほとんど売れなかったようだが、その後、アップル社はこのGUIを搭載した本格的なパソコンMacintoshを発売した。

 1988年サンフランシスコのMACWORLD Expoに出かけた服部は、Macintosh IIを購入して帰ってくる。Lisaが2bitで白黒の図形や線画しか扱えなかったのに対して、Macintosh IIは、8bitのカラー表示が可能で図形だけでなく自然画も扱えるようになっていた。CPUも、68000から68020に変更され、処理が格段に早くなっていた。また、ジョン・スカリーによってNuBusが採用され、ビデオカードやEthernetカードなどを必要に応じてユーザが差し込めるよう拡張性が高くなっており、サードパーティも開発しやすいようになっていた。Macintosh IIを見たエンジニアたちは、GUIの世界が軽快にカラーで動くことに再度驚きを覚えた。Macintoshには、MacDrawやMacPaintというソフトがついており、ビル・アトキンソンが開発したQuickDrawという描画ルーチン(ToolBox)の上で動いている。ワープロソフトのコラージュでは、そのマニュアルを読みながら仕様を解析し、PC98上でMacintoshのGUIとそっくりな動きをするように作られた。コラージュの描画ルーチンを開発したアルバイトの滝川君は「B.U.G.のビル・アトキンソン」とも呼ばれていた。
 MPSIIIのMP CATSについても、PC98上で同等機能の製品を大日本印刷で開発していたが、PC98ではグラフィックの扱いなどに限界が見えていたため、量産販売に備え、Macintoshに載せかえることになったのであった。こうしてB.U.G.とMacintoshの関係が深くなっていった。

 前述のとおり、Macintosh IIから、モニタ一体型ではなくNuBusを採用したオープンシステムになっていたため、コンピュータのモニタに出力するためのビデオカードが入っておらず、別売りとなっていた。19インチカラーモニタで7〜80万円、ビデオカードでまた7〜80万円が別売されていたのである。ある時、若生が、そのビデオカードを見ながら、新林に「新ちゃん、このカードの原価っていくらぐらいだろう」と聞いた。新林は、カードに載っているチップなどを見ながら「だいたい原価は20万円くらいじゃないですか」と答えた。「新ちゃん、これ作れる?」「たぶん。」

MacExpo
92' ジョン・スカリーと握手する服部
MacExpo
94' スーパーマックテクノロジー社と共同出展

 こうしてMacintoshのビデオカード開発が始まった。原価20万円が80万円で売れるおいしい商売である。B.U.G.が放っておくはずがなかった。1990年、Macintosh用24bitフルカラービデオカードが開発された。このビデオカードは先に述べたSPEREALにも使用されることとなる。

 1991年2月、B.U.G.は、初めてMACWORLD Expo/Tokyoに参加する。それから1995年までの5年連続で、アップル社に次ぐぐらいの大きなブースでMACWORLD Expo/Tokyoに連続出展した。1993年のMacExpoでは、初日に米国のMacintoshビデオカード開発最大手であったスーパーマックテクノロジー社と共同記者会見し、業務提携を果たした。

 MACWORLD Expo/Tokyoの目玉は、Macintosh用のビデオカードやISDNルータROUTE ONE、また、SPEREALや後に述べるGazetteなどのMacintoshをフロントエンドとしたシステムであった。B.U.G.の中で1年の最大のイベントがIGASからMACWORLD Expo/Tokyoへと代わっていった。

 その後も、1994年にMacintosh用統合開発環境CodeWarriorの日本における総代理店となるなど、Macintoshのとの関わりを持ち続けている。



次回は、4-2 B.U.G.に子会社誕生です。B.U.G.にも子会社ができるまでになりました。

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Update.2000.03.31
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