BUG新卒採用ページ
20年史
  1章 BUG草創期
  1-1 北海道マイコン研究会
  1-2 個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.誕生
  1-3 東京での就職活動
  2章 BUG設立
  2-1 株式会社BUG設立
  2-2 主力製品
  2-3 大企業ソニー
  2-4 大日本印刷との出会い
  2-5 インドネシアと中国にて
  3章 新社屋建築
  3-1 MPS
  3-2 テクノパークに新社屋
  3-3 MPSからの産物
  4章 開発物語
  4-1 Macintoshのデベロッパーカンパニー
  4-2 B.U.G.に子会社誕生
  4-3 ハイビジョン映像機器
  4-4 データベース出版システム
  4-5 MN128開発物語
  4-6 波乗野郎開発物語
番外編

こちらは、社史の番外編、補足編です。ちょっとした裏話や、登場人物の紹介をいたします。

登場人物紹介(所属・肩書きは1999年時点のものです)

登場人物
登場する主要人物のご紹介。
  • 青木先生・・北海道大学大学院工学研究科教授。マイコン研究会発足者。北海道の情報産業に多大な貢献を果たし続ける有名な先生。
  • 伊福部先生・・東京大学先端科学技術研究センター教授。B.U.G.設立当初の営業担当?
  • 山本先生・・北海道大学大型計算機センター教授。得意料理はトムヤムクン。
  • 似鳥・・創立メンバー4人の先輩にあたる。現B.U.G.常務取締役。設立当初から現在に至るまでB.U.G.の技術的なご意見番をつとめる。似鳥が知らないことは誰も知らない、と言われるほどの人物。
  • 阿部・・創立メンバー4人の先輩にあたる。現B.U.G.取締役、最高技術会議議長。日本人ばなれした独特の風貌で逸話は数知れず。
  • 服部・・B.U.G.創立メンバーの4人。現B.U.G.代表取締役。B.U.G.創立に奔走した中心的人物。
  • 若生・・B.U.G.創立メンバーの4人。現フィクス代表取締役社長。ブルース・リーのモノマネが得意?
  • 村田・・B.U.G.創立メンバーの4人。現ソフトフロント代表取締役社長。江別の神童といわれた逸材。
  • 木村・・B.U.G.創立メンバーの4人。現メディアグラム代表取締役。顔はこわいが、本当はやさしい。

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阿部とドラゴ

阿部 ドラゴ
阿部 ドラゴ

「ドラ5であがるドラゴさん。」(本当にドラゴがマージャンをしたのかは不明)
ドラゴは、ユーゴスラビア(現在のスロベニア)から来ていた学生で阿部にそっくりであった。VMEバス用Ethernetコントローラボードを阿部とドラゴで開発していたところ、社内にはこの2人だけが残ることがよくあった。ある時、2人しかいない会社に宅配のお兄さんが入ってきて、どちちらも外人だと思い、どうしようか考えたすえに、「すみません・・」とドラゴに声をかけたという。

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86年新人研修

この年からB.U.G.にも女性社員が増え、豊平川のいかだ下りやクリスマスパーティなどのいろいろな行事も誕生した。向井や高杉が入社した年である。B.U.G.恒例の過酷(!?)な新人研修もこの頃からはじまっている。ところが、この年の新人研修が大変なこととなった。札幌郊外にある宮の森研修センターで泊り込みの研修を行っていたところ、ちょうど同じ時期に美容師さんたちの研修も行われていた。そこでなんと、新入社員が、研修所でナンパはするわ、写真を撮るわで、研修センターの方に「あなたたちは何をしに来たのぉ!!」と叱られ、大問題となってしまった。その後、役員がお詫びに行ったようであるが、宮の森研修センターにはB.U.G.は出入り禁止となったらしい。

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快適なB.U.G.本社

テニスコートと本社
テニスコートと本社

金融機関の反対も押し切って建設を決めたB.U.G.の社屋は、外観には、地元野幌産のレンガとハイテクをイメージしたステンレスが使われ、室内はとかく開発エンジニアが集中して仕事ができるよう配慮されており、24時間使用可能な(冬季は除く)テニスコートも完備と高級住宅なみの建設費用がかかっている。本当はプールも欲しいところであったがこちらは叶わなかった。社屋建設にあたって1987年に増資を受けており、社屋完成パーティのときには金融機関の担当者から、「この柱1つ1つには、まだ◯◯銀行の札がはってあると思ってがんばりなさい」と釘をさされたのであった。その後のがんばりで銀行のお札は取れたようである。

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新社屋落成合同パーティ

TOGETHER the party in forest
TOGETHER the party in forest

1988年10月8日、新社屋の御披露目式としてテニスコートでのテニストーナメントを含めたオープニングパーティ「TOGETHER the party in forest」を予定していた。ところがその直前の9月19日、昭和天皇の容態が悪化したため日本中に自粛ムードが広がった。すでに招待状など案内を出していたのだが、B.U.G.としても午前の部のテニストーナメントは中止することになった。「ベンチャー企業(B.U.G.が...)が自粛だなんて、まるで普通の会社みたいなことして〜。らしくないな。」と何人かに言われてしまった。

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求人活動?! 〜梅沢無線とインターフェース

社員20名から50名近くにまで増えたB.U.G.であったわけだが、中国の一件でも影ながら大変お世話になった梅沢無線の梅沢さんの人材紹介がなければ、MPSは作れなかった。(梅沢無線電機は札幌にある由緒正しい電子部品屋さんで、ラジオ少年だった創立メンバーも小学校のころからお世話になっている。)
以下、社内報BUG Reportより梅沢さんの紹介がきっかけで入社した梁川の文を抜粋する。そのほか西野、アレックスも梅沢さんの紹介がきっかけで入社し、MPS開発の主要メンバーとなった。アルバイトの学生数名も紹介してもらっている。

「...小学生の頃はまあ普通の子供だったと思います。幾らかラヂオ少年だったかもしれません。中学生の時、本屋で何かのはずみに「インターフェース」誌を手にし 暗号のごとき 6800 のアセンブリリストを見てしまったために、マイコン(死語)を作るなどという良からぬことを企てたのでした。....1冊の「インターフェース」のために人の道を外れた私は、 良からぬ企てを実行するために(北高で放送局にいたのでその関係でもたまに)、 梅沢さん(電子部品屋さんです)のとこによく行っていました。高 2 かそこらのある日、部品を買い込みに行くと梅沢さんは何を思ったか、私を謎の機械が転がる部屋に連れて行きました。そこは「ビー・ユー・ジー」という小さな会社でした。なぜか「インターフェース」を2冊もらってきました。「インターフェース」おそるべし(なんやそれ)。」

このとき梁川は高校生でアルバイトとして紹介されたが、いたいけな少年に見えたのでそのまま帰してしまった。その後大学を卒業して入社するわけだが、MPSの開発メンバーに加わるとその実力を発揮し、あのときアルバイトで手伝ってもらっていたらどんなに助かったか、と後悔したのであった。

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イサム・ノグチ氏との出会い

アーキテクトファイブとイサム先生は、草月会館の庭をイサム先生が設計したことから知り合った。そして、アーキテクトファイブとB.U.G.とのきっかけは、アーキテクトファイブのメンバーの1人が梅沢さんと同級生であったことからであった。
1987年11月、毎年四国のアトリエで行われるイサム先生の誕生日会にアーキテクトファイブからのお誘いで服部も行ってみることにし、そこでイサム先生と出会う。どちらかと言うと人の好き嫌いがはっきりしていて少し気紛れで気難しく気の向いたときにしか作品を作らない、というようなタイプに見られていたイサム先生であったが、世間話をしているうちにどうも服部のことを気に入った様子であった。お正月にでもニューヨークの美術館に遊びにおいでよと誘われ、ちょうどサンフランシスコでMac World Expoがあるからその足で行きます、と早々に返事をした。
THE ISAMU NOGUCHI GARDEN MUSEUM 」は、イサム先生の作品が展示されているプライベートな美術館で普段は一般の人は入れない。約束の通り、新年にニューヨークに行ったところ、すべての作品をイサム先生自ら説明をしてくれた。その中で服部の目を引いたのが、ベネチアの公園にも置いてあるという石の滑り台であった。滑り台の他にもイサム先生が子供たちがみんなで遊べるようにと願って作ったブランコやジャングルジムなどの遊具も展示されていた。ニューヨークのセントラルパークの造形に携わっていたときに用意して作っていたものであったが、市長の交代や人種問題等様々な理由で頓挫したようであった。服部は、まさか欲しいとも言えず、ダメ元だと思って「札幌にもこんな滑り台があるといいですね」と言ってみた。すると、イサム先生は「場所によってはいいよ」と言ってくれたのだ。服部の頭の中ではテクノパーク内にあるといいな、と思っていたのだが、ちょうど芸術の森美術館を作っていた札幌市の工業課の知り合いにその場で電話をかけ、イサム先生が札幌でも何かしてくれるかもしれないと事情を説明したところ、とんとん拍子で話が進み、一度先生に札幌に来てもらうことになった。 イサム先生はこれまで日本に来ても、東京、京都、四国しか行ったことがなかった。

イサム先生
モエレ沼の図面を見る

その年の3月、イサム先生が初めて札幌に訪れ、まず芸術の森の視察に行った。しかし、芸術の森はほぼ完成の状態であったため、きちんと造成されているし自分が手伝えるところはない、とのことだった。札幌市は芸術の森がダメだった場合に見せようと思っていた第2案の札幌市東区のモエレ沼の図面を見せた。ごみ捨て場であったモエレ沼に山のある公園の造成を計画していたのである。イサム先生は未着手のモエレ沼の方に興味を示し、早速現場に見に行くことにした。雪の降る中、視察したところ、本来は山は神様のものだから人間が作ってはいけないけれども、この辺りには山がないし、周りの人々も山のある公園があった方が楽しく暮らせるだろう、とモエレ沼のデザイン設計を担当してくれることになった。イサム先生はアメリカでは行政との公園造成の話が何度かあったようだが、日本ではあまり大きな仕事はしていなかったようで、モエレ沼公園が初めてであった。市長の交代で市政もがらりと変わるアメリカでは、マイアミの公園やニューヨークの例もあるように途中で終わることもしばしばあった。札幌のモエレ沼造成計画は、始まった当初から順調に進み、その様子を喜ばしく思っていたようである。
滑り台はどうなったかというと、服部はテクノパークに欲しいと密かに思っていたが、札幌市としてはやはり市民の目によく触れる街の中心に置いておきたいという意向であった。同年の6月、モエレ沼の造成で札幌を訪れていた先生を大通公園に連れて行った。当時、大通公園の8丁目と9丁目の間には道路があったが先が行き止まりで交通の便が悪かったため、その道路を閉鎖して公園をつなげたいという意向もあった。8丁目にはすでに幅の広い大きな滑り台があり、そこで多くの子供たちが遊んでいるのを見たイサム先生は、その札幌市の意向をくみとったのか、公園の間に道路があったら子供たちが広く遊べないからここの通りつなげてしまって滑り台を置きましょう、と自らが札幌市の大義名分となってくれた。そうして現在のように8丁目と9丁目は2区画となりイサム先生作のあの黒い滑り台が置かれることとなった。

イサム先生 イサム先生
建設中の社屋を見学

イサム先生は札幌に来た際には、何度かB.U.G.社屋の工事現場も見学に来ていた。そして社屋完成の1、2ヵ月前ぐらいに、突然イサム先生からつくばいを作ったから見においでと連絡があった。早速四国のアトリエに飛んで行ったところ、3つほど石のつくばいができていた。石のつくばいは、ニューヨークのメトロポリタン美術館や東京の最高裁判所にもあるがそれぞれ形状が全く異なっている。ギリシャのアポロン宮殿のオンファロスから作られたつくばいはB.U.G.のTHE OMPHALOSだけである。その3つの中から一番よさそうな1つを選んで、フェリーで四国から運んできた。600キロから700キロはある石の彫刻である。2Fのフロアには階段と流水場のようなところが設計されていたが、急遽取り止めてフロア中央につくばいを置き、そのつくばいから水が流れるように変更した。なぜB.U.Gにつくばいをプレゼントしてくれたのか本当の理由は誰にも分からない。もしかしたらそれは、モエレ沼公園造成のきっかけを作ったお礼だったのかもしれないし、完成間近の社屋を見て何かひらめいたのかもしれない、もしくは記念すべき第1号作(Link)を完成させたアーキテクトファイブへのプレゼントだったのかもしれない。

登別温泉にて
登別温泉にて

イサム先生は、札幌に来る度に温泉に行った。最初は温泉を嫌がっていたのだが、無理に登別の第一滝本館の大浴場に連れて行ったところ、あの大浴場というものは初めての体験だったようで、大変気に入ってくれた。その後温泉にハマったようである。小樽や支笏湖など道内の温泉を一緒にめぐった。
社屋の落成式も終わった1988年10月29日、イサム先生は、新社屋に置かれたTHE OMPHALOSを見るために来社した。吹き抜けになっている3階にも上り、「上から見ると人の目の形をしているんだよ」と言って眺めていた。そしてニューヨークに戻った2ヵ月後、テレビのニュース速報で先生の訃報を知ることになる。THE OMPHALOSは先生の遺作となってしまった。モエレ沼公園は現在も造園中で2004年ごろ完成の予定である。その風景を先生が見ることはないが、すでに多くの子供たちが遊べる市民の憩の場所となっている。

オンファロス

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オンファロス

オンファロス・遺跡付属博物館
デルフィの遺跡
オンファロス・遺跡付属博物館 デルフィの遺跡
撮影/写真提供:山本仁氏(ともにギリシャにて)
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Update.2000.02.14
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