BUG新卒採用ページ
20年史
  1章 BUG草創期
  1-1 北海道マイコン研究会
  1-2 個人経営ソフトウェアハウスB.U.G.誕生
  1-3 東京での就職活動
  2章 BUG設立
  2-1 株式会社BUG設立
  2-2 主力製品
  2-3 大企業ソニー
  2-4 大日本印刷との出会い
  2-5 インドネシアと中国にて
  3章 新社屋建築
  3-1 MPS
  3-2 テクノパークに新社屋
  3-3 MPSからの産物
  4章 開発物語
  4-1 Macintoshのデベロッパーカンパニー
  4-2 B.U.G.に子会社誕生
  4-3 ハイビジョン映像機器
  4-4 データベース出版システム
  4-5 MN128開発物語
  4-6 波乗野郎開発物語

BUG社長服部裕之君のこと

伊福部 達

 北大の入学式を終えた足で服部君は 応用電気研究所の私の研究室(メディカルエレクトロニクス 部門、1975年当時の主任吉本千禎教授)を訪ねてきた。「将来、僕はMEの研究をしたいのでよろしくお願いします」とのことであった。少年のような眼差しで多くの夢を語って帰っていった。果して、それから3年後、電子工学科の学生時代に彼は私の 研究室に顔を出すようになった。いつの間にか、HIROTACという名前の自作のマイコンが研究室の片隅に置かれていた。彼の眼差しが3年前と変わったなと感じたのはそのころであった。


伊福部教授(1982年)

 卒論では聴覚障害者用触知ボコーダのための音声特徴抽出という研究テーマだったような気がするが、彼の卒論はまだでていないので定かではない。彼のME研究の夢はどこにいってしまったのだろうか。修士課程は、その当時新設された生体工学専攻を選んだ。その方が奨学金が当たりやすいというのが選んだ理由だった。修士課程に入ってから、村田利文君、木村真君、若生英雅君がし きりに私の研究室に出入りするようになってきた。当時、Z80 CPUが安く手に入るようになり、それを使ったキットでクロメンコというマイコンを作ったりしていた。私の研究室で当時博士課程1年生の似鳥寧信君も加わり、連日のようにマイコン談義が続いた。その言葉の端々に「僕らの会 社」という言葉が聞き取れた。彼らは、もう、「僕 らの会社」に盲目になっていた。

 私は、服部君を卒業させるためにとにかく修論の研究テーマを与えなければならなかった。最初に与えたのが、Z80マイコンに神経モデルを移植し、それを多数配列した神経回路であった。このテーマには半年ほど食いついていたようであっ たが、長続きはしなかった。つぎは人工触覚によ る点字自動認識の研究だったと思う。いずれにしても少しずつ易しいテーマに変えていき最終的に は6個ほどの修論の材料を与えた。しかし、「僕らの会社」に夢中だった彼はどのテーマにも魅力を感じなくなっていた。

 そのころ私は招待講演を頼まれて韓国へ行ったことがある。講演終了後、韓国の電子通信工学会の会長と会食をする機会があったが、その席で私はインベーダと呼ばれるテレビゲームが日本では爆発的に流行しているという話をした。会長は、そのゲームを今すぐに韓国に輸入すれば一儲けで きるかも知れない、ぜひ協力して欲しいと真剣になって語りかけてきた。帰国してから服部君にその話をすると目を輝かして聞き入り、彼は早速パ スポートとビザをとり韓国行きの準備に取り掛かったのである。しかし、その直後、朴大統領が 暗殺され政情が不安定になったため結局一儲けの話は流れてしまった。私には、そのとき服部君と青年実業家の姿とが重なって見えた。

 修論は、卒業する3カ月前であるが、似鳥君が 取り組んでいた音声タイプライタの研究の一部として、音声フィードバック機能を備えた音声タイ プライタということに落ち着いた。彼の修論の発表を終えると、某教授から「彼は本当に研究していたのか」と強く問いただしてきた。私は、「修士時代で学んだ多くのことを彼の会社を通じて必ず社会に還元するようになりますから見ていてください」といってその場はお茶を濁した。


スキーペンションにて(1982年)
後列向かって左より、木村、若生、服部
前列向かって一番右、村田

 彼の修士時代には、似鳥君が中心となって作ったSTAFFというマイコンが完成し、それを製品化していた。研究室の残りの学生も次第に会社を応援するようになっていた。私にはその大きな流れを止めるすべはもう無かった。その流れが新聞記者の目に止まり、元旦の記事として大きく採り上げられてしまった。フロンティア精神の溢れる 北大の大学院生らが会社を興すといった内容で あった。正月休み明けに案の定、某教授から呼ばれ 「君の研究室で会社を作っている学生がいるそうだが、即刻やめさせるように」と強く釘を刺され た。大学教授というのは何故せっかく出てきた芽を摘むのだろうか、何故安全な生き方だけを選ぶよう教育するのかと不満を抱いた。私もすでにそのころは会社側の人間になっていた。

 パンフレットをいつも持ち歩き機会があればマイコンSTAFFとそれで作った音声タイプライタの宣伝をしていた。私の自宅で会社の予算獲得のための書類作りを手伝ったこともある。似鳥君が博士課程を終えたら会社で採用したいという服部君の熱意を似鳥君に強く伝えたことも思い出す。あるとき共同研究をしていた大手印刷会社の重役方が私を訪ねてきたことがあるが、そのとき私はぜひ見て欲しい会社があるといって、重役方をつれて行った。それから間もなく、その印刷会社から大きなプロジェクトを任せたいという依頼があった。それを、見事にこなして会社は急成長した。その後の会社については多くを知らないが、しばしば新聞で活躍ぶりが紹介されているのを見ては誇りに感じている。

 ひたすら走り続けている彼の姿を想像すると 「卒論はいつもらえるの」という元指導教官の冗談はもう通用しない。服部君は私の青春の最後に一つの生き方を教えてくれた指導教官でもあるからである。

いんふぉうえいぶVOL.6 No.1 より転載(1991)

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Update.2002.07.31
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