■イサム・ノグチ氏との出会い
アーキテクトファイブとイサム先生は、草月会館の庭をイサム先生が設計したことから知り合った。そして、アーキテクトファイブとB.U.G.とのきっかけは、アーキテクトファイブのメンバーの1人が梅沢さんと同級生であったことからであった。
1987年11月、毎年四国のアトリエで行われるイサム先生の誕生日会にアーキテクトファイブからのお誘いで服部も行ってみることにし、そこでイサム先生と出会う。どちらかと言うと人の好き嫌いがはっきりしていて少し気紛れで気難しく気の向いたときにしか作品を作らない、というようなタイプに見られていたイサム先生であったが、世間話をしているうちにどうも服部のことを気に入った様子であった。お正月にでもニューヨークの美術館に遊びにおいでよと誘われ、ちょうどサンフランシスコでMac
World Expoがあるからその足で行きます、と早々に返事をした。
「THE ISAMU NOGUCHI GARDEN MUSEUM
」は、イサム先生の作品が展示されているプライベートな美術館で普段は一般の人は入れない。約束の通り、新年にニューヨークに行ったところ、すべての作品をイサム先生自ら説明をしてくれた。その中で服部の目を引いたのが、ベネチアの公園にも置いてあるという石の滑り台であった。滑り台の他にもイサム先生が子供たちがみんなで遊べるようにと願って作ったブランコやジャングルジムなどの遊具も展示されていた。ニューヨークのセントラルパークの造形に携わっていたときに用意して作っていたものであったが、市長の交代や人種問題等様々な理由で頓挫したようであった。服部は、まさか欲しいとも言えず、ダメ元だと思って「札幌にもこんな滑り台があるといいですね」と言ってみた。すると、イサム先生は「場所によってはいいよ」と言ってくれたのだ。服部の頭の中ではテクノパーク内にあるといいな、と思っていたのだが、ちょうど芸術の森美術館を作っていた札幌市の工業課の知り合いにその場で電話をかけ、イサム先生が札幌でも何かしてくれるかもしれないと事情を説明したところ、とんとん拍子で話が進み、一度先生に札幌に来てもらうことになった。
イサム先生はこれまで日本に来ても、東京、京都、四国しか行ったことがなかった。

モエレ沼の図面を見る |
その年の3月、イサム先生が初めて札幌に訪れ、まず芸術の森の視察に行った。しかし、芸術の森はほぼ完成の状態であったため、きちんと造成されているし自分が手伝えるところはない、とのことだった。札幌市は芸術の森がダメだった場合に見せようと思っていた第2案の札幌市東区のモエレ沼の図面を見せた。ごみ捨て場であったモエレ沼に山のある公園の造成を計画していたのである。イサム先生は未着手のモエレ沼の方に興味を示し、早速現場に見に行くことにした。雪の降る中、視察したところ、本来は山は神様のものだから人間が作ってはいけないけれども、この辺りには山がないし、周りの人々も山のある公園があった方が楽しく暮らせるだろう、とモエレ沼のデザイン設計を担当してくれることになった。イサム先生はアメリカでは行政との公園造成の話が何度かあったようだが、日本ではあまり大きな仕事はしていなかったようで、モエレ沼公園が初めてであった。市長の交代で市政もがらりと変わるアメリカでは、マイアミの公園やニューヨークの例もあるように途中で終わることもしばしばあった。札幌のモエレ沼造成計画は、始まった当初から順調に進み、その様子を喜ばしく思っていたようである。
滑り台はどうなったかというと、服部はテクノパークに欲しいと密かに思っていたが、札幌市としてはやはり市民の目によく触れる街の中心に置いておきたいという意向であった。同年の6月、モエレ沼の造成で札幌を訪れていた先生を大通公園に連れて行った。当時、大通公園の8丁目と9丁目の間には道路があったが先が行き止まりで交通の便が悪かったため、その道路を閉鎖して公園をつなげたいという意向もあった。8丁目にはすでに幅の広い大きな滑り台があり、そこで多くの子供たちが遊んでいるのを見たイサム先生は、その札幌市の意向をくみとったのか、公園の間に道路があったら子供たちが広く遊べないからここの通りつなげてしまって滑り台を置きましょう、と自らが札幌市の大義名分となってくれた。そうして現在のように8丁目と9丁目は2区画となりイサム先生作のあの黒い滑り台が置かれることとなった。
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建設中の社屋を見学 |
イサム先生は札幌に来た際には、何度かB.U.G.社屋の工事現場も見学に来ていた。そして社屋完成の1、2ヵ月前ぐらいに、突然イサム先生からつくばいを作ったから見においでと連絡があった。早速四国のアトリエに飛んで行ったところ、3つほど石のつくばいができていた。石のつくばいは、ニューヨークのメトロポリタン美術館や東京の最高裁判所にもあるがそれぞれ形状が全く異なっている。ギリシャのアポロン宮殿のオンファロスから作られたつくばいはB.U.G.のTHE
OMPHALOSだけである。その3つの中から一番よさそうな1つを選んで、フェリーで四国から運んできた。600キロから700キロはある石の彫刻である。2Fのフロアには階段と流水場のようなところが設計されていたが、急遽取り止めてフロア中央につくばいを置き、そのつくばいから水が流れるように変更した。なぜB.U.Gにつくばいをプレゼントしてくれたのか本当の理由は誰にも分からない。もしかしたらそれは、モエレ沼公園造成のきっかけを作ったお礼だったのかもしれないし、完成間近の社屋を見て何かひらめいたのかもしれない、もしくは記念すべき第1号作(Link)を完成させたアーキテクトファイブへのプレゼントだったのかもしれない。

登別温泉にて |
イサム先生は、札幌に来る度に温泉に行った。最初は温泉を嫌がっていたのだが、無理に登別の第一滝本館の大浴場に連れて行ったところ、あの大浴場というものは初めての体験だったようで、大変気に入ってくれた。その後温泉にハマったようである。小樽や支笏湖など道内の温泉を一緒にめぐった。
社屋の落成式も終わった1988年10月29日、イサム先生は、新社屋に置かれたTHE OMPHALOSを見るために来社した。吹き抜けになっている3階にも上り、「上から見ると人の目の形をしているんだよ」と言って眺めていた。そしてニューヨークに戻った2ヵ月後、テレビのニュース速報で先生の訃報を知ることになる。THE
OMPHALOSは先生の遺作となってしまった。モエレ沼公園は現在も造園中で2004年ごろ完成の予定である。その風景を先生が見ることはないが、すでに多くの子供たちが遊べる市民の憩の場所となっている。
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